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DJミキサー

SPECIAL COLUMN
​EVENT ORGANIZER INTERVIEW

サーモン太郎(BunGeee☆)

Interviewer:一野大悟

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2007年 サーモン太郎 氏

――クラブカルチャーとの出会いからお聞きしたいです。初めてクラブに行ったのはいつ頃だったのでしょうか?

サーモン太郎 2003年ごろ、オフ会で行ったのがきっかけでしたね。当時は2ちゃんねるでオフ会を企画するのが流行っていた。その中の一つとして『クラブに行くオフ会』というものがあり、怖いもの見たさで参加しました。その時に行ったのは既になくなってしまったUNDER LOUNGEというクラブ。すごく大きな会場で、そこに広がる非日常な空気がとても魅力的だったのを記憶しています。

――どういった楽曲がそこではプレイされていたのでしょうか?

サーモン 本会場に限らず、当時僕が遊びに行っていたクラブは週末はどこもハウス・テクノをはじめとした“四つ打ち”曲がプレイされていました。ボーカルが入っていない曲が使われることが多くて、時々洋楽を耳にする程度。アニメソングどころかJ-POPを耳にすることはまずありませんでした。

日本人のDJでは石野卓球さんやケン・イシイさんが世界的に評価され、続いて☆Taku TakahashiさんやDAISHI DANCEさんの名前が売れ始めた。彼らが日本人に馴染みのある曲、例えばジブリの劇伴曲などをハウス・テクノ風にリミックスするようになった。それらをクラブで聴く機会が徐々に増えていくという流れでしたね。

――日本語ボーカルの曲がクラブでプレイされることはまだなかったと。

サーモン そうですね。僕の出入りしていたクラブで日本語ボーカルを聴くようになったのはハウス・テクノのムーブメントが下火になった後です。流行の変遷に伴いクラブの経営母体が大きく入れ替わった。もともと“チャラい”イベントは日曜日に開催されてたんですよ。そこでは選曲もオールジャンルで、時にはJ-POPを耳にすることも出てきました。それが新たな経営母体で運営されるクラブでは金曜日や土曜日にもオールジャンルが開催されるようになった。

――そんな変遷があったんですね。サーモンさん自身がDJを始めたのはどうしてでしたか?

サーモン これもオフ会がきっかけでした。当時2ちゃんねるを通じてオフ会を開くのが流行りだったんですよ。『クラブに行くオフ会』以外にも多様なオフ会が開催されており、中には『ボディーガードオフ会』と題してひとりの女性をみんなで守りながら街を歩くものもありました。そんな中で「みんなで作ろうクラブイベント」という2ちゃんねるスレッドが作られ、そこから派生した『異臭騒ぎ』というオフ会兼クラブイベントが生まれた。そこに参加したのがDJを始めるきっかけでした。

――『異臭騒ぎ』はどのようなイベントだったのでしょうか?

サーモン 本イベントはみんなでクラブを借り、自薦でDJやVJに挑戦できるイベントでした。最初僕はお客さんとして本イベントに遊びにいっていた。何度か通う中で「DJやってみませんか?」と誘われるようになりました。僕自身当時クラブに頻繁に出入りしていたため、DJに対して興味があった。それで何度か練臭会(練習会)でレクチャーを受けたのちにDJデビューさせてもらいましたね。

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異臭騒ぎ フライヤー

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異臭騒ぎだJ フライヤー

――当時の『異臭騒ぎ』はどういった曲がかかっていたのでしょうか?

サーモン 開催初期はいわゆるクラブミュージックが多かったですね。ヒップホップをかける方もいればハウス・テクノを使う方もいた。あとはアニメソングをサンプリングしたナードチューンでプレイする人もいましたね。その後、回を重ねるごとにJ-POPやアニソンを使う人が自然と増えていった。2ちゃんねる派生のイベントなのでアニソンが好きな人も多くいましたからね。

――『異臭騒ぎ』参加者の方で現在大御所のDJになっている方もいるのでは?

サーモン そうですね。思い返すと本イベントには関西のアニソン・サブカルDJシーンの立役者になる人たちが多く名を連ねていました。クラブ・Mizu no Oto~水ノ音のオーナー・REIさんや、東京にあるイベント会社・ANO inc.のA-KIさん、ファミコンチップチューンのHIGEさん、最年長アニソンDJでCAOFF WESTのレギュラー・kyonさんをはじめとした人たちが参加していましたね。

――ご自身での初オーガナイズはいつのことでしたか?

サーモン DJを初めて数年後のこと、当時の『異臭騒ぎ』オーガナイザーさんが引退することになったんですよ。それで本イベントを引き継いだのが初オーガナイズでした。当時僕がオフ会の企画を多数おこなっていたので、それを見込んでのお話だった思います。

――オフ会幹事とは違った苦労もあったのでは?

サーモン そうでもないですね。当時『異臭騒ぎ』はある程度形式が決まっていた。加えてmixiの流行もあり連絡もスムーズに行えていたんですよ。なので、初めての経験とはいえそこまで苦戦することもありませんでした。もちろん先輩方の支えあっての事でしたが。

――その後、サーモンさんは『BunGeee☆』を立ち上げます。始めたのはどういった経緯だったのでしょう?

サーモン これまで『異臭騒ぎ』を開催していたclub saomaiというお店が閉店することになり、別会場を探していた時期があるんですよ。その時に番外編として単発イベント『異臭騒ぎだJ』という日本語楽曲オンリーのイベントをAGORA OSAKAで開催した。これが大好評で、会場側からレギュラー化してほしいというお話をいただいたんです。ただ、あくまで本イベントは『異臭騒ぎ』の番外編。これを継続開催すると『異臭騒ぎ』を私物化することになります。それでAGORA OSAKAと共同開催で2009年に立ち上げたのがアニソン&J-POPメインのDJパーティ『BunGeee☆』です。

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2009年BunGeee☆第一回

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2011年BunGeee☆ @BERONICA

――スタート後の反響はいかがでしたか?

サーモン ありがたいことにすごくいい反響をいただきました。パーティー写真を見直すと初回開催からお客さんとしてtamuくんをはじめとした、立ち上げ前の『MIXBOMB』運営メンバーが遊びにきてくれていた。ただ、『BunGeee☆』2回目開催を前にAGORA OSAKAさんは閉店。突如次の会場を探さなくてはいけなくなりました……。

――そんなことが……。

サーモン そうなんですよ。でも、以前から『異臭騒ぎ』のオーガナイズをしていたこともあり、コネクションを辿っていって無事次の会場を見つけることができました。その後は会場を点々として京橋にあるBERONICAさんに落ち着きましたね。この経験から色々なクラブの人

と交渉するノウハウが身についた。その後のイベント開催にも役に立ったと思っています。

――当時はJ-POPやアニソンがDJで使われることも増えていたのでしょうか?

サーモン いわゆるアニクラというものが始まる前にはコスプレダンパと呼ばれるダンスパーティーが大々的に開催されていた。そこではアニソンがDJで使用されることも多くあったようですね。ただ、大きなクラブでJ-POPやアニソンがかかることはあまりなかった。小さい会場で内々に開催されるイベントでは一部使われていたようですが……。

そんな中、J-POPやアニソンが大々的にクラブでかかりはじめたのはアメリカ村DROPで開催されていた『夜★スタ』がきっかけだったと。本イベントは懐かしのJ-POPやアニソンがかかるイベント。多い時には700人を超えるお客さんが集まる僕らの憧れの的でした。このイベントが流行ったことにより日本語楽曲がクラブでかかることが市民権を得たように思います。

名村造船所跡で開催されたクラブフェスにもアニソンDJが呼ばれるようになりました。

――アニソンメインのクラブイベントが開催されはじめたのはいつ頃でしたか?

サーモン 『夜★スタ』が始まった同じ年の2007年に『CAOFF WEST』さんと『アニメソングDeligh』さんがスタートし、彼らはアニソンメインのパーティを掲げていました。この2イベントは『夜★スタ』とはスタイルが違い、その時流行っているアニソンを中心にDJでプレイしていました。、2008年から2009年にかけて京都では『アニ鍋』が『夜★スタ』の流れを汲んではじまり、神戸で『Dドライヴ』、大阪では僕ら『BunGeee☆』が生まれ、さらに『MIXBOMB』もスタート。この頃から関西のアニソンDJシーンと言えるものができ、お客さんも増えていきました。とはいえ当時はまだ日程が被るほどイベント数はなかった。健全なブームができている感じでしたね。

――その後、『BunGeee☆』さんは多様な会場で開催されるようになります。

サーモン クラブ界隈に長らく出入りをさせてもらっているおかげで多くのクラブオーナーと繋がりができ、色々な会場を紹介いただけるようになったんですよ。おかげで『BunGeee☆』もいろんな会場で開催させてもらえました。中でも印象的だったのは心斎橋にあったLIVE&BAR11(オンジェム)という大箱を使わせてもらえたこと。本会場は雰囲気的にもJ-POPやアニソンが流れるような感じではなかった。そんな場所で開催した『BunGeee☆』は特別感がありとても楽しかったですね。

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2012年マチ★アソビ 橋上DJブース

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2017年マチ★アソビ DJステージ

――会場が使うにあたって交渉もあったかと思います。

サーモン 僕がよく話すのは、クラブのメイン営業時間ではないタイミングを使わせてほしいということ。ほとんどのクラブは夜の営業がメインで、昼間は会場を遊ばせていることが多い。そのため、昼時間であればチャレンジングな企画も受けいてくれやすいんです。これは会場代の交渉にも使えるのでよく話をしますね。

加えて、タレントDJの招致も会場との交渉においては有効でした。当時はサオリリスさんをはじめ、大阪発信のタレントDJがいたんですよ。僕自信彼女たちと面識があった。彼女たちが出演するイベントであれば会場側の興味もひきやすかったため、交渉材料の一つになっていました。

――開催場所を選ぶにあった大切にしていることはありますか?

サーモン ラグジュアリーな会場に選ぶように心がけていますね。僕が作りたいのは非日常感がある

、理想としては洋画で出てくるようなド派手なパーティ。そういう場所でJ-POPやアニソンを大音量でかければ、来た人に特別感のある経験を提供できると思いますから。

――さらに『BunGeee☆』さんでは「#プールバンジー」をはじめとした野外イベントも開催されています。

サーモン これらのきっかけとなったのは2012年に開催された『nonstop アニソントレイン祭』でしたね。『大阪城サマーフェスティバル』の一環として大阪城西の丸庭園で開催された本イベント。『BunGeee☆』、『夜★スタ』、『MIXBOMB』をはじめとしたDJイベントが招待いただき、屋外DJブースでプレイをさせていただきました。これが新鮮ですごく楽しく、もう一度やりたいと思わされた。しかし、『大阪城サマーフェスティバル』は翌年以降開催されることはなくて……。なんとか屋外でイベントをやろうと考えた時に出会ったのが徳島で開催されているアニメイベント『マチ★アソビ』でした。直談判してDJブースを設けさせてもらいましたね。

――当時『マチ★アソビ』運営サイドとはコネクションがあったのでしょうか?

サーモン 全くなかったんですよ。なのでホームページから事務局の電話番号を調べ、電話での直談判しました。これが功を奏し毎年夏には大阪のDJたちが揃って徳島に行く流れができました。当時は好奇心と行動力がすごかったんですよ。直接電話したりメールしたり……。どんどん新しいことを思いつき挑戦していましたね。

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プールバンジー 2016年

――今後やっていきたいこともお聞きできればと思います。

サーモン 現状、僕自身がやりたいことはやり尽くした感じがあるんですよ。その一方で、これまでのオーガナイズを通して自分の中に多大なノウハウが蓄積されているとも感じる。なので今後は若い子たちがやりたいことをバックアップする方向に舵を切っていきたいです。特に本冊子を作っているsaqkiiii!!!!くん、『BunGeee☆』にも参加してくれているAkkeYくんたち意欲のある若手の動きを後ろから支えていきたいですね。

――具体的にどういった面のバックアップをしたいなど考えはありますか?

サーモン クラブイベント開催にあたり人と人の繋がりってすごく大切なんですよ。クラブのオーナーも見ず知らずの人には会場を貸したがらないですからね。ただ、そこに“共通の知り合い”が入ると話は変わってくるんです。僕がその“共通の知り合い”になれればいいと考えていますね。

――現役DJの皆さん、これからDJを始めようと思っている皆さんにアドバイスはありますか?

サーモン 僕らの時と比べてDJを始めるのが格段にハードルが下がり、誰でも気軽に始めれる趣味としてDJが出来るようになって来てると思うんですよ。

個人や仲間内で楽しめればそれでいいって人もいるでしょうけど、現場で続けていけば繋がりや世界がどんどん広がり、その先には憧れの場所への出演、憧れの人との共演が待っていたりとDJを始めて良かったと思える瞬間が来ると伝えたい。僕自身、DJを通して好きな声優さん、アーティストさんと共演させていただく機会がいただけましたからね。その時の喜びはやはり一入ではなかった。そういうのを楽しみにDJを頑張ってみるのもいいのではないかと思います。

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